1953年
現在の「GOKOカメラ株式会社」の前身である「三星光機株式会社」(資本金50万円)が後藤正(当時27歳)によって創立される。当初の数年間に及ぶ困難への挑戦の中で企業の理想とはかくあるべきとの思いから基本的な経営理念を次の如く定める。
企業理念三原則
- 経営者自身も企業自体も見栄の心を排す(当時僅かな成功で経営者が思い上がり、衰退消滅する企業が非常に多かった教訓から生まれた)
- 自身で開発生産した製品を販売する。所謂下請け仕事は行わない(特殊な技術を持たない限り、下請け仕事に真の利益は無い)
- 無借金を原則とし、変事に備え常に充分な資金の余裕を保有する(当時の状況から、金融機関も最終的に企業の味方にはなり得ない。当時多くの企業が金融機関に過大な期待を持ち倒産した)
当時多くの企業が倒産し惨めな姿を晒した。当社はこれらの状況に学び、「物理的に倒産し得ない企業」の構築を目指した。この三原則の堅持を「輝ける中小企業」と呼び、それを目標として構築した。
この三大原則は約60年を経た現在も堅持されている。
1960年
当時、カメラ用コピースタンド、8ミリ交換レンズ、万能ファインダー等を生産していたが、技術革新によって主力製品を8ミリ用フィルム編集機に変換する。
現在の「GOKO映像機器株式会社」の前身の一つとなる「五光カメラ飯田株式会社」を設立。
1962年
弊社社長(現会長)により企業経営の合理化のための「合理化7つ道具」が開発され、企業体質は一気に向上。
1964年
得意先の倒産等で困難もあったが、世界で10社ほど有った編集機業界で頭角を現し、R8、S8両仕様の供与可能な編集機を開発(特許取得)。一気に世界市場を席巻。アメリカ、コンシューマーズレポートで上位三位までを当社が独占する。
1967年
業容拡大のため長野県中川村に伊那工場を設立。更に倒産状態であった飯田の信陽電子工業(株)を買収、三立光機(株)と命名し傘下に納める。伊那工場には広大な土地もあり、プラスチック部品の自社生産から24時間の無人成型に成功。部品コストは激減。この成果は日経新聞に大きく報道されると共に、中小企業庁推薦によってNETテレビ(今のテレビ朝日)で30分に亘って合理化のモデル工場として全国に放映される。
1968年
三立光機(株)は当社の合理化の洗礼を受け、瞬く間に高収益企業に変わり、自己資本比率90%をはるかに越え地域の優良企業に変わる。
1971年
現在の「GOKO映像機器株式会社」の前身の一つとなる「株式会社五光映像科学研究所」を設立。
1976年
伊那工場にて、当時開発された録音付きフィルム編集機に不可欠な他社では出来ない12面体、24面体等の多面プリズムの研磨機自体を自社開発することに成功。8ミリ録音編集機では世界唯一のメーカーとなり、世界市場の100%のシェアーを確立した。その後も伊那工場は多くの新技術を開発。当社の合理化のメッカとなった。
1980年
この年「週刊ダイヤモンド」の新年号が[世界市場占拠率第一位の企業70社]を公表したが、大企業に伍して当社もこのリストに乗った。
この過去20年が当社の歴史の中での第一期の黄金時代である。
好事魔多し、この時期に開発されたビデオの情報が広がるに従って8ミリ編集機の業界は一気に衰退した。 国内を含めた全世界の8ミリ業界における有名各社の倒産、破産の悲報が報道された。当然当社の受注も一年半で十分の一に激減した。 当社は基本理念によって強靱な体質があり、経営に不安はなかったが真剣に新製品の開発に没頭した。
1981年
この間8種類もの新製品を開発したが、最後に到達したのがコンパクトカメラであった。然しこの間当初の「経営理念三原則」によって、利益を出しつつこの危機を乗り越えた当社の経緯を世間は驚きをもって見「業界の七不思議」、「神業」とまで評したものである。
1982年
この時期カメラは既に大企業独占の成熟産業とされていた。当社はここで特異な発想をする。
「日本のカメラは優秀だが高価でもあり、先進国の人々の為のものだ、これら対象地域の人々の総数は地球上僅か13%に過ぎない。ということは日本がカメラ大国と言っても地球上80数%の人々の為のカメラは誰も作っていない。
それではそれらの人々のためのカメラを我々は作ろう」これがコンセプトであり、そこに眠っていた巨大なマーケットが存在したのだ。
(このコンセプトは日経BP社から発行された書籍『心に書きとめておきたい名経営者の至言』の中で、松下幸之助、本田宗一郎など錚々たる経営者の名言と並んで弊会長名も取り上げられる名誉に浴している)。
当時開発されたUF-2(ユニバーサルフォーカス)機は特殊な手法で固定焦点でありながら遠近対象に合焦するアイデアを盛り込んだもので、世界一を標榜するカメラ会社の開発部長からも「これは名機だ」と評価され、その後全世界の普及型カメラの標準機となった。
1984年
創立30周年を向かえ、サイパン島のハファダイホテルで全社員参加のもと、30周年記念式典が行なわれた。
1985年
この時期から以後10数年に亘り、弊社長(現会長)は「低開発国の人々の為のカメラを」と言うカメラ開発時のコンセプトに従い、低開発国内でのカメラ生産に積極的に取り組み、中国(今では誰も知らぬが、文化大革命後の中国で中国政府との合弁会社を作り、カメラ生産のノウハウを始めて伝授したのは当社である)、韓国、台湾、インド、ブラジル、又インドネシア(あるフィルム会社の依頼で)、等で現地企業との合弁でカメラ生産を行い低開発国のカメラ生産に寄与した。更に生産に至らなかったがハンガリー、ロシアでの生産の検討も行った。これらの活動を行った企業は他に無い。
1988年
日本の高名カメラメーカーのほぼ総てからカメラのOEMを依頼され、受注の急激な増大によって自社主力工場をマレーシアに開設、弊社の主力工場となる。
1989年
「三星光機株式会社」は業容に応じ社名を「GOKOカメラ株式会社」と改める。
1993年
カメラ生産は一気に増大し月産45万台、年産420万台に達し、コンパクトカメラの生産台数世界一(日経ビジネス1991年8月5日、12日号)と評され、グループの売上は230億円に達す。
一方日本国内ではバブルに踊った諸企業がその崩壊で惨めな姿を見せる中、その完全な埒外にある当社は無借金経営の恩恵も有って膨大な利益を計上、将に順風万帆であった。
当社の第二期黄金時代である。
この時期マレーシア工場への来訪者が相次ぎ、当時の森山文部大臣始め、各種の経営者団体の来訪が続いた。
なお弊社長(現会長)は日刊工業新聞主催、優秀経営者表彰制度による 「国際貢献者賞」 を受賞した。
1996年
この頃より普及型カメラには低賃金による台湾、中国のカメラ生産が進み、当社としては中級機への移行を迫られた。 特に当社の手法は「他社に無い特長を有する製品」への特化が社のポリシーであり、「何の付属品も使わずそのままで10センチメートルの極至近撮影が可能なカメラ」と言うカメラ有史以来初めてのカメラ、マクロマックスタイプカメラの普及型、ズームタイプを開発対抗した。このカメラは「日本の歴史的カメラ」に選定されると共に、当時のドイツに於けるカメラショー「フォトキナ」においてドイツのカメラ雑誌社長より本フォトキナに於ける最も興味ある製品3種の一つに挙げられる栄誉を得た。
1998年
この頃より徐々にデジタルカメラが市場に侵入して来、将来の方向が暗示された。 現在でも激しい競争が行われる中で、電機業界の参入が新たに想定され、この分野への継続に将来は無いと判断した社長(現会長)は全面的なコンパクトカメラ業界からの転換を覚悟した。
2000年
業容の大転換はピークに230億円を売り上げた製品の方向転換を意味し、容易では無いが、思い切ってカメラは需要に応じて漸減し、大勢を国内産業に転換した。従来のカメラ産業関連各社が惨憺たる状況に陥る中で当社は無借金のまま方向転換が可能である体力を温存していた。創立当時の「企業理念三原則」堅持の賜物である。
2002年
業容の大転換を実行に移した記念すべき年である。
- GOKOカメラ(株)と(株)五光を統合、光学機器はカメラを漸減し医療関係をはじめ特殊な光学機器に転換。更に日本の重要産業である農業の衰退に注目。農業部門にカメラで鍛えられた合理化思想と技術を注入すべくトマトの生産工場を創設。伊那工場を廃止し、16,000坪の用地に8,000坪の日本有数の広大なガラスハウスを他の援助なく自費10億円を投じて建設。アグリ事業部として年間800トンのトマト生産を目指す。
- (株)五光インターナショナルコーポレーション(現GOKO映像機器(株))は海外資産の管理とともに余裕資金をもって国内不動産の管理、他企業への投資、資金融資を行う。
- GOKO飯田(株)は旧工場用地を利用し、高級コンドミニアム3棟、ショッピングセンターを構築。旧工場とともに不動産賃貸業に変換。
- GOKOマレーシアはマレーシア政府の推薦で東海岸に約50万坪の土地を購入。100メートルX100メートルの養殖池を330個構築し、海老(ブラックタイガー)の養殖を目指す。
2005年
将来の企業承継を目標に業容を拡大と同時に整頓する。
GOKOカメラ(株)は
- 映像事業部は多機種の医療関連及び光学測定関連の特殊映像機器を開発生産販売。
- アグリ事業部門は更に農産物関係の多機種の加工品工場を併設、「GOKOとまとむら」と改称してより拡大発展を目指す。
- 余裕資金で他企業への投資を行う。
GOKOインター(株)(現GOKO映像機器(株))は
- GOKOカメラ飯田を合併統合、マンション、ショッピングハウス、貸工場等の不動産管理を拡大。
- GOKOマレーシアを吸収、現地の生産活動を整理、現地不動産の管理。
- 新たに輸入業務部門を開設。
- 他企業への投資、融資を行う。
2006年
事業承継を更に進めるため、
- GOKOカメラ(株)は後藤 正が取締役会長に退き、後藤 佳子が取締役社長に就任。後藤 尚が取締役に就任。
- GOKOインター(株)は後藤 正が取締役社長を継続、後藤 友子が取締役 業務統括、後藤 英子が取締役に就任。
共に新体制を築くが、会社創立間もなく選定され、半世紀以上に亘って厳守されてきた当社の企業経営理念「輝ける中小企業の」の三大原則
- 企業も経営者も見栄を張らない
- 自社で考え自社で作る。
- 無借金を原則とし常に充分な資金を保持する。
2011年
GOKOカメラ(株)アグリ事業部(「GOKOとまとむら」)における加工品製造増加・多種化に対応するため、既設の加工工場を拡大増設。
2015年
GOKOインター(株) 後藤 正が取締役会長に、後藤 友子が取締役社長に就任。
2017年
GOKOカメラ(株)長野地区でのアグリ事業部が繁忙を極めてきたため、映像事業の更なる発展のため川崎地区での統括管理が合理的と判断し、GOKOインター株式会社が映像事業部を新設しGOKOグループ内映像事業を担当。
2018年
GOKOグループが従来主力としてきた映像事業の一層の拡充のため、GOKOインター(株)は「GOKO映像機器株式会社」へ社名を改める。
2020年
GOKOカメラ㈱アグリ事業部の更なる発展を目的とし会社新設分割を行い、新会社「GOKOとまとむら株式会社」を設立。GOKOカメラ株式会社は「株式会社GOKO」へ社名を改める。